茶道の宗へん流
〈侘び数寄〉 千利休の弟子が定義。一物も持たず、胸の覚悟が定まって、作分と手柄が整ったのが侘び数寄。 例えば、一物を持たずと言うのは、その当時は唐物と言って、何百年も前に中国から伝来してきた美術品を持っているのが偉くて、それを所持しているのが偉いとされた。それを所持していないと正式な茶人として認めないというのが暗黙のルールとして存在していた。侘び数寄はそういう考え方に対するカウンタ−カルチャ−で、正直に慎み深く奢らぬ様のこと。だから侘び数寄は精神や生き方のことで、それは縄文の時代から人の血の中にあるものである。 侘び数寄における美しい暮しとは、基本は倫理観で、その根底にあるのは慎むということ。そう生きている中で生まれてくる秩序が、形になって表れる。モノについても同じで、倫理観から来るシンプルな考え方やシンプルな生活、そこから来る秩序に則った合理的なデザインというのが良いし、美しい。倫理観がしっかりないと、何かものを選ぶときも、見た目が格好良いものや誰々が作ったものだからという方向に行ってしまうのではないか。 昔は、当然だが生活に必要なものは自分たちで作っていた。ガラスなどもないし、素材を加工することができないから、自然のものを活かして、暮らしに役立つものを作ろうとする。だから自然をよく観察していないといけない。どうせ作るならよい形のものを作ろうということになって、過去にあるなにがしかのものを真似たり、改良したりして良いものが出来上がっていく。だから一番大事なのは、やっぱり自然。 昔ながらの生活は忙しくてできないってみんなは言うけど、時間を使うために文明は発達しているはず。ITのために生きているんじゃなくて、ITを使って自分の時間をつくって、豊かさに役立てるべきだと思う。余計なものを排除するために必要なモノの選び方は、まず自分自身を知ること。自分というのは実は自分の中になく、周りの人が自分に抱いているイメ−ジである。自分が格好良いと思ったものが親には理解されないというのがいい例。自分のことが分からないから飾りたくない。自分を知れば余計なことはしなくなると思う。 デザインっていうのは、思想を具現化したものというか、生き方に対する答えだと思う。人の生活を豊かにするために、人間や文化を掘り下げて、使う人の顔を思い浮かべながら作られたものが良いデザインなのだと思う。だから人間関係というか、人と人との関わり方が希薄なところからは、良いデザインは生まれてこないかもしれない。
by aknrkym
| 2005-10-28 18:41
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