from NIKKEI DESIGN April.2009 p16

白以外の色を使うと、その色に意味があるのかと思われてしまうため、コンセプトが伝わりやすいように白を選んできた。
(中略)
現代の日本では、MUJIに代表されるような『ユニバーサル性』『謙虚さ』『無彩色』『ノーマル』『シンプル』が良いデザインの条件とされている。
その次にある“next”を提示したい。
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# by aknrkym | 2009-04-22 00:07

by 新版 エヴァンゲリオン解読 そして夢の続き/北村正裕 著

P038
加持とミサトは、とまどい、たじろぐシンジを勇気づけ、視聴者にもメッセージを送る、水先案内人のような存在である。
加持は、シンジに、
「人は他人を完全には理解できない。自分自身だってあやしいものさ」「だからこそ人は自分を、他人を知ろうと努力する。だから面白いんだな人生は」(第拾八話)
と語り、まさにこの作品のテーマそのものを、あまりにもはっきりと宣言さえしている。

P087
他人と違う「自我」を形成するには、他人との接近が必要であり、また、他人との接近は、自ずから、他人を排除しようとする自我を目覚めさせる結果ともなるというわけだ。
そしてこういう矛盾の中での葛藤こそが、「生きる」ということであり、加持の言葉を借りれば、「だからこそおもしろい」ということになるのだ。

P122
(中略)
この対話の中のレイの台詞は、他人との接触から逃げて、自分の殻に閉じこもろうとしていたシンジに対する叱咤激励のメッセージであると同時に、作者から視聴者へのメッセージのようでもある。
作者は、この『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメ作品が、単なる現実世界の代替物にされることへの不快感を、ここで露骨に表明していると見ることができる。
『エヴァ』は、現実世界の中で悩み、考え続ける作者の「真実」であるのだとしたら、
それは、現実世界を拒絶し続けようとするシンジと同じであり、自我喪失の危機にさえつながってしまいかねない状態である。
この作品で作者が追求しているのは、そういう「逃避」から逃れて、、他人のいる世界の中
で、他人の「現実」との葛藤の中でこそ形成される自分の真実、あるいは、その真実を追求するためのプロセスである。
(中略)
カヲルの「現実は知らないところに。夢は現実の中に」という声に続く、レイの「そして、真実は心の中にある」という声。
『新世紀エヴァンゲリオン』の集大成のような台詞である。

こうした、作者からの直接的な「メッセージ」は、「オタクによるオタク批判」などと呼ばれることもあったし、また、これによって『エヴァ』はオタク・アニメから離れて「社会派アニメ」に近づいたというような言い方をされることもあった。
そして確かに、ビデオゲーム等と同列にある単なる現実の代替品ではないという点では、『エヴァ』には宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』などに代表される「社会派アニメ」との共通点はあるかもしれない(中略)
しかし「社会派」芸術の主流とは、重要な点で大きくその方向性を違えている。
例えば『ナウシカ』が描いたのは、核戦争後の、機械文明の崩壊した地球を舞台にした、人類の新たな生存の可能性であり、『もののけ姫』が問題としたのは、人類と自然との共生の可能性であって、いずれも問題となっていたのは「自分」ではなく、「人類」であった。
そこでは「自分」は「社会」との関係においてのみ扱われるのである。その視点は、そういう意味では、「全体主義」と、何ら変わることはない。
では『エヴァ』はどうか。
『エヴァ』こそ、自分の殻に閉じこもることの空しさからの脱出そのものをテーマとし、「他人」との交流、交感によってのみ「自分」が形成されるのだという主張を全面に出し、
また、そうした自我形成が痛みをともなっても、なお、だからそれ故に、魅力的なことなのだという「メッセージ」を込めた作品なのだから、これこそ、一見「社会派」そのものであるかのようにも見えるかもしれない。
そこで追究されているのは、決して「人類」の未来ではなく、どこまでも「他人」という「現実」との関わり合いの中で形成されていく「自分」という「真実」、「心の中」の「真実」なのだ。
そしてこれこそが、従来の社会派アニメに決定的に欠けていたものであり、また、『エヴァ』の希有な魅力の本質なのだ。
そして、これこそ、本来の芸術が持つべき重要な要素であったのではないだろうか。

『エヴァ』のラストシーンには、明日の人類への指針など、微塵もない。したがって、時代によって変化する社会的価値観に負ぶさった評価など受けるはずもない。
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# by aknrkym | 2009-04-19 08:53 | a book

ボッチョーニ 「未来派画家技術宣言」


あらゆるものは動き、走り、すばやく回転する。
眼前の形は決して静止してはおらず、絶えず現れたり消えたりしているのだ。
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# by aknrkym | 2009-02-08 14:24

AXIS 2006 08 P120

小さく、薄く、軽くする
機能を集める
携帯化、身体化する
時間と空間を拡げる
飾りを削ぎ落とす
コミュニケーションを媒介する
自動化、省力化する
技能を開放する
バリエーションを広げる
誰もが使えるようにする
自然を映す
システムに編成する
素材を活かす
素材を拓く
美しく包む
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# by aknrkym | 2009-02-07 14:02

from 広告批評 2009.01 P89〜

昔から、テレビは、最高に楽しいものだと思っているし、いまもその気持ちに変わりはない。
近頃テレビは堕落しているとか、暗いことを言う人は、単純に年をとって、感度が鈍った人が、テレビが近頃面白くないと言っておけば無難かなと、あまり見てもいないで、そう捉えている人だと思う。
(中略)
ダメになっているとしたら、批評家の老朽化。
あとは、視聴者や消費者という名のもっともらしい良識派然としたご批判。
それにピリピリしり側。
教育上とか、表現の自由とか、冗談を許さない感じのがんじがらめのコード。
愛情溢れる批判ならいいけれど、昔と比べてばかりとか、自分がピンとこないから批判するとか、そもそもセンス的について行けなっているのに、ダメだと決めつけるとか、そういうのが多すぎる感じがする。メディアもクライアントも、批判にさらされることに敏感になりすぎて、ま、仕方ないですがね。
日本全体が、よってたかっていじめる体質になってきているから。
それを怖がる気持ちもわかる。
ま、とにかく、テレビは面白い。
楽しくなければテレビじゃないし、テレビCMじゃないとも言いたい。
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# by aknrkym | 2009-02-01 03:12 | magazine

福田繁雄ハードルは潜れ


常識を少しだけずらすような感じと言ったらいいんでしょうか。
柔道の投げ技と同じだと思うんですよ。
相手の力を利用して投げ飛ばす。こっちから無理に投げるんじゃない。
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# by aknrkym | 2009-01-25 05:17 | mook

福田繁雄ハードルは潜れ p24


僕、学生にはよく言うんです。
「外を歩くときには、イヤホンを耳につけて音楽を聴きながら歩くな」
って。
近所のおばさんの声でも風の音でもいいから、現実の音を聞かなきゃね。
グラフィックデザイナーのプロになるんだったら、街のことを知らなきゃ。


時代を、社会を、世界を、読まなきゃいけない。
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# by aknrkym | 2009-01-24 15:05 | mook

by BRUTUS 2009.02.01 p31


例えばひとつの言葉があるとして、皆がその言葉を聞いて何を共通にイメージするか。
それを明確に、具体的に思い描いてみて。
そこを飛ばすから何をしたいか分からない。

あなたが何を、ではなく、皆が何を、をまず探し、そこから自分の中に浮いてきたものを理解していく。

もう一度テーマは何か、何を作ろうとしているのか、全体のシナリオを書きなさい。
小説でも何でも、とんでもなく複雑に見えるものでも、中心には必ずコンテスト(文脈)がある。
最初から散らかってるものなんてない。

(中略)

人にどう伝わるか、どう届きたいのか。
編集能力も重要で、そのプレゼンテーションが結局、何を考え、何を見てきたかを露出させる。
作品を作ることも重要だけど、分析し、論じられなければならない。
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# by aknrkym | 2009-01-10 20:37 | magazine

Ettore Sottsass 定理に基づいたデザイン p25


デザイン定理を追及するためにデザインすることがあってもよい。
“デザインする”意味は何なのか。(中略)
デザインは人々にどんなかたちで残るのか。
何もない空間にどんなかたちを残せるか。
歴史の亡霊が棲みついてしまっている空間では、新たに何を残していけるか。
どこまですればデザインが意義ある提案となるのか、
あるいはどこまでしたらデザインが有無を言わさぬ強制や権現に成りかねないのか。

実に複雑でなおかつ魅力的なデザインの定理を浮かべながら、考えたりデザインしたりすること。
すなわち存在意義を定理づけること。
その行為を、私は“定理に基づいたデザインをする”と呼んでいる。


デザインの定理のことで頭がいっぱいになっていると、しばし、ワードローブやテーブル、バイク、ドアなどは、人間の力を増強させる補助器具のようなモノとしてのみのためにデザインされていないはずだと思い直すことがある。
敵を殺すためだけの弓矢のデザインではないだろうし、スープをためるだけの容器のデザインではないだろう。
洗ってあるリネンをしまうためだけのチェストのデザインでもないだろう。

こういった“人のための補助器具のような”モノや、他の幾千のモノのデザインには、人生の中にささやかな“神聖さ”のかけらを加えるための、盛大なあるいは何気ない日常的な“儀式”に使うための道具としてのデザインが、意識的にあるいは無意識に含まれているのだと思う。可能な範囲で。


デザインの背後にはいつもほんの一瞬の沈黙が隠されている。
何かがやって来る、もしくは何かが起こる期待感。
ひとつのデザイン、ひとつのプロジェクト(企て)がこの世にすえられた瞬間、それを手掛けた者には責任が課せられる。
バイソンを殺すために弓矢を使った者は、バイソンに許しを乞うことになるだろうし、敵を殺すために剣を使うことは、血が吹き散るということだろう。
テーブルの上にスープの皿が添えられていたら、その皿を与えてもらえる幸せも感謝したくなるだろう。
デザインという定理は実に晦渋なものである。
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# by aknrkym | 2009-01-05 23:54 | mook

from AXIS 2009 Feb p18

世の中にはエンターテインメントが重視される傾向が強いですが、エンターテインメントには新しいわからない方の入り込む余地がなかなかない。
基本的に、手取り足取りわからせてくれるものですから。

ただ、そういうものばかり見せつけられると、当然それに飽き足らない人が出てくる。
人間は知的生命体だから、わからないものを提示しても、自ら分析し組み立てて、壁を乗り越えてしまう。
その過程自体が面白い。
つまり与えられたエンターテインメントではなく個人の興味や関心に立脚した表現が必要になってくるんです。
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# by aknrkym | 2009-01-03 18:42 | magazine