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福田繁雄ハードルは潜れ


常識を少しだけずらすような感じと言ったらいいんでしょうか。
柔道の投げ技と同じだと思うんですよ。
相手の力を利用して投げ飛ばす。こっちから無理に投げるんじゃない。
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by aknrkym | 2009-01-25 05:17 | mook

福田繁雄ハードルは潜れ p24


僕、学生にはよく言うんです。
「外を歩くときには、イヤホンを耳につけて音楽を聴きながら歩くな」
って。
近所のおばさんの声でも風の音でもいいから、現実の音を聞かなきゃね。
グラフィックデザイナーのプロになるんだったら、街のことを知らなきゃ。


時代を、社会を、世界を、読まなきゃいけない。
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by aknrkym | 2009-01-24 15:05 | mook

by BRUTUS 2009.02.01 p31


例えばひとつの言葉があるとして、皆がその言葉を聞いて何を共通にイメージするか。
それを明確に、具体的に思い描いてみて。
そこを飛ばすから何をしたいか分からない。

あなたが何を、ではなく、皆が何を、をまず探し、そこから自分の中に浮いてきたものを理解していく。

もう一度テーマは何か、何を作ろうとしているのか、全体のシナリオを書きなさい。
小説でも何でも、とんでもなく複雑に見えるものでも、中心には必ずコンテスト(文脈)がある。
最初から散らかってるものなんてない。

(中略)

人にどう伝わるか、どう届きたいのか。
編集能力も重要で、そのプレゼンテーションが結局、何を考え、何を見てきたかを露出させる。
作品を作ることも重要だけど、分析し、論じられなければならない。
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by aknrkym | 2009-01-10 20:37 | magazine

Ettore Sottsass 定理に基づいたデザイン p25


デザイン定理を追及するためにデザインすることがあってもよい。
“デザインする”意味は何なのか。(中略)
デザインは人々にどんなかたちで残るのか。
何もない空間にどんなかたちを残せるか。
歴史の亡霊が棲みついてしまっている空間では、新たに何を残していけるか。
どこまですればデザインが意義ある提案となるのか、
あるいはどこまでしたらデザインが有無を言わさぬ強制や権現に成りかねないのか。

実に複雑でなおかつ魅力的なデザインの定理を浮かべながら、考えたりデザインしたりすること。
すなわち存在意義を定理づけること。
その行為を、私は“定理に基づいたデザインをする”と呼んでいる。


デザインの定理のことで頭がいっぱいになっていると、しばし、ワードローブやテーブル、バイク、ドアなどは、人間の力を増強させる補助器具のようなモノとしてのみのためにデザインされていないはずだと思い直すことがある。
敵を殺すためだけの弓矢のデザインではないだろうし、スープをためるだけの容器のデザインではないだろう。
洗ってあるリネンをしまうためだけのチェストのデザインでもないだろう。

こういった“人のための補助器具のような”モノや、他の幾千のモノのデザインには、人生の中にささやかな“神聖さ”のかけらを加えるための、盛大なあるいは何気ない日常的な“儀式”に使うための道具としてのデザインが、意識的にあるいは無意識に含まれているのだと思う。可能な範囲で。


デザインの背後にはいつもほんの一瞬の沈黙が隠されている。
何かがやって来る、もしくは何かが起こる期待感。
ひとつのデザイン、ひとつのプロジェクト(企て)がこの世にすえられた瞬間、それを手掛けた者には責任が課せられる。
バイソンを殺すために弓矢を使った者は、バイソンに許しを乞うことになるだろうし、敵を殺すために剣を使うことは、血が吹き散るということだろう。
テーブルの上にスープの皿が添えられていたら、その皿を与えてもらえる幸せも感謝したくなるだろう。
デザインという定理は実に晦渋なものである。
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by aknrkym | 2009-01-05 23:54 | mook

from AXIS 2009 Feb p18

世の中にはエンターテインメントが重視される傾向が強いですが、エンターテインメントには新しいわからない方の入り込む余地がなかなかない。
基本的に、手取り足取りわからせてくれるものですから。

ただ、そういうものばかり見せつけられると、当然それに飽き足らない人が出てくる。
人間は知的生命体だから、わからないものを提示しても、自ら分析し組み立てて、壁を乗り越えてしまう。
その過程自体が面白い。
つまり与えられたエンターテインメントではなく個人の興味や関心に立脚した表現が必要になってくるんです。
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by aknrkym | 2009-01-03 18:42 | magazine

from ことばがひらく 岡本太郎展


芸術家の純粋な孤独は、その反対極としての現実と対決するために、やはりそれを強力に把握しなければならない。
ニ者を矛盾する両極として立てるのである。
(対極の定め方は、合理・非合理、古典主義・浪漫主義、静・動、吸引・反発、愛・憎、遠心・求心等、芸術の技術に即してさまざまである。)
この二つの極を、妥協させたり混合したりするのではない。
矛盾を逆にひき裂くことによって、相互を強調させ、その間に起こる烈しい緊張感に芸術精神の場があるという考えである
(『芸術と青春』1956年)


世界をこの眼で見抜きたい。
眼にふれ、手にさわる、すべてに猛烈二に働きかけ、体当たりする。
ひろく、積極的な人間像を自分自身につかむために。純粋な衝動である。
(『岡本太郎の眼』1966年)


すべての古典はそれぞれの時代に、あらゆる抵抗にたいして現在を決意し、たくましい生命力を充実させた精神の成果です。
過去の権威によりかからず、おのれを卑下せず、激しく生ききった気配に溢れています。
そういうものだけが伝統として、精神的に、肉体的に、われわれ現在を決意したものにびりびり伝わってくるのです。
(『原色の呪文』1968年)


人生に挑み、ほんとうに生きるには瞬間瞬間に新しく生まれ変わって運命をひらくのだ。それには身心とも無一物、無条件でなければならない。
捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでいる。
(『自分のなかに毒を持て』1988年)


赤は激しい情熱をほとばしらせる。
なまなましい、生命そのものの色だ。
と同時に、それは鮮血の色。
危険、不吉、死を思わせる。それが一体になっているのだ。
だからこそ、「赤」は、ただおめでたい、甘い、きれいな彩りではなくて、激しく挑発する、戦慄的な実在である。
(『生きるための死に方』1989年)
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by aknrkym | 2009-01-02 22:36 | booklet